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高松商の1回守備前の3塁円陣の理由。志摩定一の供養伝統と高野連今年2019年の春選抜に顔を出した香川県代表の高松商業ですが、実は戦前から続くある伝統があるのです。

春選抜大会ができた最初の1924年大会で優勝を果たしてる高松商業ですが、その第一回大会で優勝したメンバーに纏わる伝統なのです。

初回の守備前に3塁で円陣・水を吹き出す

古くから現在まで高松商業ナインは、初回の1回の守りの前に、主将を中心に円陣を組みます。(ベンチ選手も含めます)

そして主将は口に含めた水を3塁ベースに吹きかけるのです。

知らない人からすると、よくわからない儀式のように見えますが、この儀式は高松商にとっては大切な伝統なのです。

高松商ではこれを「志摩供養」と呼びます。

かつて第一回の選抜で優勝したメンバーの志摩定一選手を供養する意味の儀式なのです。

しかし、何年も野球部がその存在を大切にする志摩定一さんとは、どんな選手だったのでしょうか?

当時の主力メンバーは松本投手(中)、野村主将(左)、生乃捕手(右)のイメージがありますが・・。

実は志摩定一さんは、生前から「死んでもサードを守る」と持病に苦しみながらも宣言した逸話があったのです。

志摩定一とはどんなサードだったのか?

志摩定一選手というのは、優勝した1924年の第1回大会の主力選手です。

決勝の早稲田実業戦では6番サードでフル出場し、チームの優勝に貢献しました。

守備の特徴としては、どんな強い打球も体の前で落として、アウトにしてしまうという気合いの入ったプレーが持ち味だったそうです。

しかし、それよりも前に肺の病気を抱え、1924年の優勝した冬に他界されました。

1924年の夏の甲子園の予選では高松中にまさかの大敗。その帰りの船の中で発熱されたそうです。

生前から「自分は死んでも魂は残って、三塁を守る」という言葉があったことから、上記にあるような志摩定一選手の供養の儀式が伝統として根付いたのです。

優勝した当時は2年生だったということで、翌年3年時の主力選手としての期待と無念があったことも、この供養行為の要因だったと思います。(新チームになっても同じメンバーだという意識確認の意味で)

高野連からは「宗教的」「遅延行為」として中止勧告

しばらく高松商業は地区予選でも甲子園の試合でも、この志摩供養を行っていました。

しかし1978年に高野連から「宗教的行為」「遅延行為」と見なされ、甲子園での中止勧告を出されたのです。

この中止勧告をめぐっては、今だに高野連の考えに賛同できないファンもいるみたいです。

現在、甲子園に出場しても志摩供養は行われませんが、甲子園以外の地区予選などでは見ることができるので、是非、香川県に足を運んで、生で高松商の重き伝統を見てみてください。

供養の現在

現在までにこの伝統の行為は続いていますが、相変わらずに甲子園では禁止行為です。

2016年大会に春選抜で準優勝を遂げたときは、現代版のやんわりとした供養行為がみれました。

練習試合などでこの儀式を行うこともあったが、20年ぶりに高松商が甲子園出場を決めたことで、OBから復活を願う声が上がった。全員による儀式はできないが、三塁手の山下樹(3年)は毎試合、初回の守備の際に片膝をつき、右手をベースに添えて祈りをささげた。現代版の「志摩供養」。「大舞台で伝統あるチームの三塁を守れることに感謝している。誇りと責任感を持って、命がけでサードを守りたい」。練習では捕手の防具を身につけ、近距離ノックを受けた。体中にできたアザの一つ一つに思いが詰まっていた。

決勝では8回に三塁強襲の内野安打を許したが、それ以外のゴロ3つをアウトにした。準決勝は完璧に守った。長尾健司監督(45)が「高松商のユニホームには、誇りと血が染みこんでいる。歴史の名に恥じない戦いをしないといけない」と話すように、伝統を受け継いだ魂のプレーで準優勝に輝いた高松商ナイン。天国の大先輩も大喜びで見届けたはずだ。引用:https://friends.excite.co.jp/

サードを守る山下選手が、守備に就いた際に個人で3塁ベースに触り、片膝を立ててお祈りするという形です。

普段の練習から偉大な先輩に負けじと、防具をつけての強い打球のノックを受けていたそうです。

選手たちが積極的に先輩への尊い気持ちを表現しようとしてる点、儀式が妨げられても志摩さんの魂は生き続けることでしょう。

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